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布施・弁天ノート「貴方の住んでいる町を知ってみませんか」
成島京子氏の思い出語り:「戦前、戦中、戦後体験談」
「広辞苑」で「手記」を引いてみると、まず、自分で記すこと。また、そのもの。自筆。自書。体験したことなどを、みずから書き綴ったもの。~を残すとある。
今回の記事は、布施初の代議士・成島魏一郎氏のお孫さんにあたる、成島京子さんの戦前・戦中・戦後の体験談を、富勢ふるさと協議会への投稿から、掲載したものである。(出典:「成島京子さんの体験談:富勢ふるさと協議会への投稿」より)
①富勢地区の成り立ち
南北朝時代(1300年代)戦いに敗れた京都の公家出身の成島と名乗る人が自分の領地であった上州館林よりもっと温暖な平地を求めて視察に出た。たまたま布施の地が気に入り、家来として連れてきた平野(現古谷)氏と共にこの地に居をかまえる。
以来、成島家は明治の新政府ができるまで名字帯刀を許され、近隣38ケ村の名主を務めた。富勢は水戸街道の裏街道として人や荷物の往来が多かった。また、布施弁天が出来てから、江戸からの参拝人も多くなり、寺山坂下に旅館や料理屋ができた。利根遊水地(旧和田沼)にはうなぎ・鯉・鮒等がいつでもとれた。
②富勢(ふせ)地区とは
今の富勢地区は布施村と根戸村が明治になって合併して誕生した。布施村は南北朝後人が住み、根戸村は水戸街道ができたことにより、人が住むようになった。そのため根戸地区は江戸に近い方から、上・中・下とだんだん人が増えた順に集落ができた。布施新田、根戸新田は近世になって新田がつくられ田畑の近くに人が住み、集落となっていった。
③富勢(とみせ)と呼ぶようになったのは・・・
柏市と合併をする時である。布施村と根戸村が合併した時、布施地区の方が人口が多かったので布施村のままでいいという意見が多かったが根戸地区の人の反対があり、字を変えて富む勢と書き、呼び方を「ふせ村」とした。柏と合併の際、ふせは手賀沼の布瀬とまぎらわしいということで「とみせ」と読ませることとなった。合併前は富勢村布施(ふせむらふせ)だった。
④古谷地区に城があった
柏市の火葬場のある高台を城山といい、古谷地区に御城、中城という屋号の家がある。館と言う程度のもので、成島一族、平野一族(平野は分家をつくらなかった)が住んだのでしょう。
⑤坂東太郎の異名をもった利根川
ダムというものが無かった昔、利根川上流で大雨が降ると、今の寺山坂下や古谷の下の家はその都度水に襲われた。外の堤防が我孫子の常磐線の鉄橋の近くで切れているのは、完全にふさいでしまうと戸頭地区(取手)が洪水になるので遊水地が必要だったからである。
遊水地が干拓された後の10年位は、上流で大雨が降ると我孫子で口を開けている場所からいろいろな物が流れてきた。また、遊水地にはまこもが生い茂り、農家は小舟でこのまこもを刈り取り、牛の飼料とした。
⑥鴨や雁の飛来地だった遊水池
一面に水草が生い茂る11月から3月頃まで鴨、雁等の水鳥が飛来した。禁猟区に指定され、富勢で2名だけ網による猟が許されていた。
夕方、鴨が帰ってきて静かになった頃、小舟で近づき四本の竹竿を立て上に網を張り、あんかを抱え布団をかぶって夜明けを待った。夜がしらむと鴨たちは一斉に飛び立ち、そのうち何羽かが網に首を突っ込み羽をばたばたさせると、その網に鈴がついていて、目を覚まし、鴨を生け捕りにした。干拓された後も鴨たちは越冬しに来たが、旧十余二の飛行場に米軍が進駐していた頃、休日になると鉄砲を持って鴨打ちに来たので次第に他の地に移ってしまい、2年位後は一羽もこなくなった。
鴨の羽毛は掛け布団に、内臓は腸をしごいて砂を出し、食べる。無数にある卵は、黄身だけ食べるのが最高の楽しみ。骨はたたいて細かくし、粉を混ぜて団子にし、ねぎと煮て食べる。大きな羽(翼)はブラシとして使った。 布施地区の人々は未明に一斉に飛び立つ羽音で目を覚まし、一日が始まり、営巣地へ帰って来る群の鳴き声を聞き「雁がけえって(帰って)きたから、おらんたちもけんべえ(帰ろう)」といって家路についたものです。子供達がいつまでも外で遊んでいると「はあ、雁もけえってきただよ、はよ、けえれ」とどなられた。
⑦鮭が遡上した利根川
冬の渇水期には背鰭が見えるほど浅く群れをなして本能のまま、ひたすら上流をめざす鮭でいっぱいだった。布施下あたりに来た頃、筋子として食べるのに丁度よい育ち具合だったので、これを網で捕らえ、身はもちろんのこと、生筋子を塩つけや味噌つけにして食べた。正月には最高の酒の肴だった。
⑧干拓に従事した人々
富勢の人は無論、近隣の町村の青年団、婦人会などが狩り出され、それでも人手が足りず、早稲田の学生、東京の料理業組合の人々が毎朝、上野から我孫子まで汽車で、そのあと7~8kmの道のりを鍬を担いで通ってきた。昼食は婦人会が炊き出しをして届けた。
また、茨城県内原にあった満豪開拓義勇軍の若者達が富小の講堂に寝泊りし干拓に力をいれた。この人々が持ってきたトラクターや農機具に村民は目を奪われた。
⑨軍都富勢といわれた頃
市立病院の前身が畑の中に陸軍病院として造られた。小学校5年の時、何回か友達と庭に咲いている花を持って慰問にいった。続いて、今の高野台に歩兵部隊と工兵部隊がつくられた。
あの一帯は県道沿いに一面の松林で、根戸の丁字路から布施入口まで片側は松林、片方は畑で、夕方になると気味が悪く歩いては通れませんでした。
戦争末期30歳を過ぎた中年が召集され、3ケ月の訓練で戦地へ連れていかれた。どんどん召集されるので、寝る場所も食料も足らなくなり、農家に分宿し、朝夕は宿で食べてもらった。私たちは野菜中心でも味噌汁やご飯を腹一杯食べてもらった。子供心に「ああ、戦争は負けるな」と思いました。
⑩高野台地区ができた
昭和13年頃、一面の松林だった現高野台地区に歩兵部隊と高射砲連隊がつくられた。戦争末期、毎晩アメリカのB29爆撃機が東京を空襲し房総半島へぬける帰り道だった。そのため、夜は竹林の下に堀った、防空壕で過ごした。
冬は寒いので藁を敷き、その上にむしろを敷き、その上に布団を敷き、あんかを抱えて、夜のしらむのを待ちました。B29は帰途は利根川が白く光るのを目印に洋上の母艦を目指したと聞きました。
毎晩やってくるB29に対し、十余二の飛行場から戦闘機が飛び立ち、高野台の高射砲がうなりをあげるのを聞きながら過ごしました。時々、壕から顔をだして、東京の方角に目をやると夜空が真っ赤になっていた。翌朝は風向きによって焼けた本だった紙が飛んできました。
富勢古老の歴史散策「史料と写真で綴る布施ものがたり」
布施村が何時ころ開かれたかというと、定かではないが、養老五年(721)に現在の布施付近と言われる。「意布郷」の一家族の戸籍が正倉院文書で確認する事ができる。今から、およそ1300年前と推定される。